横断歩道の端に立って車の流れを見ているだけでは、なかなか車は止まってくれない。歩行者の立場になってみればすぐにわかるが、おおむねこれが私たちのまちの交通事情である。
桐生の運転者の意識がことさら低いと言うつもりはない。もっとひどい場所もあるし、マナーが行き届いたまちもある。ということは、心がけ次第で変えられるのだ。交通弱者といわれる小さな子どもたち、そしてお年寄りのためにも、そういうまちを目指そうではないか。
難しいことではない。いまだって、手を挙げて渡る意思を示せば事情は変わる。それでも通り過ぎてしまう車はあるが、2台か3台のうちにはきっと止まってくれるから、ここは身の安全のためにも運転者としっかり意思を確認しあう方が、歩行者の横断事情はいまよりもっと改善していくと思うのだ。
一方、運転者の立場では、横断歩道の端で左右を確認している人がいれば、まずは渡りたいのだと考えて、きちんと義務を果たす態度を身につけたい。
こうやって歩行者と運転者が互いの意思を通じ合い、足りない部分を補っていくことで安心して暮らせるまちを目指す。
実に当たり前の話だが、当たり前の素地は心のうちにある価値観だ。文化を意味するカルチャーの語源は、心を耕すことであって、地味な取り組みこそがぬくもりを生むのである。
運転者の気配りに接したときや、横断する歩行者から一礼されたりすると、だれしもホッとした気持ちになれるものだ。
その半面、止まってやれなかったことで湧き上がる苦い思いや、止まってくれないことにイライラする気持ち。また、止まってやったのにあいさつもないという腹立たしさもある。
この関係を一気に切り替えるのは難しいなら、一日のうちでせめても、イライラ体験より一つでも多く、ホッとする気持ちを積み重ねたい。知らない同志が互いの意思を確認しあい、そうやって、ホッとする気持ちの貯金を蓄えていけば、いつか市民生活の根底を変えていくような力になると、思えるのだ。
経済至上主義の世の中で時間に追われ、いろんなことが世知辛くなった。交通事情はそんな時代を生きる人々の心の鏡である。弱者に対する責任が置き去られていないかどうか、絶えずバランスをとらないと、すぐに後退してしまう世界である。
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