秩序ある社会の骨格はルールである。この枠を守るのは当然のことだ。でも、それだけでは世の中は円滑に動かない。人と人の関係性をよりなめらかにしていくために、欠かすことができないのが、個々の良識に基づく状況判断のありようである。
まず、身近な例から取り上げてみたい。最近何度か体験したのが、車に乗っていていきなり渋滞になったと思ったら、道に平然と車を止めて携帯で話しているドライバーの姿があった。
道路交通法に照らせば、これすら違反に問われる可能性もあるが、運転中よりいいだろうという思い込みか、悪びれた様子はない。見かけたのはいずれも中高年ドライバー。そこに止まればどれだけ通行に影響を及ぼすのか、わからないはずはない年齢だから、はた目にはかなり身勝手な姿と映ってしまう。
携帯電話の登場で私たちの暮らしは一変した。情報交換が容易になり、こうした環境は本来なら生活にゆとりをもたらすはずだった。しかし、いったん素早い対応が可能になると、舞い込んでくる情報はどんどん増えて、「ながら」「ついで」の積み重ねで、いっそう気ぜわしくなってしまった昨今である。
だからこそ携帯電話のマナーが厳しく戒められ、運転者の行為が道交法で定められた。ひところに比べ、改善されてきたのは事実だが、違反と知りながらも平然と携帯を握っている人もいて、現実はまだ道半ばだ。
運転と電話。ともに大事なものだとしても、自分がいま、どんな環境で何をしているのかによって、優先順位は変わっていく。そして規制には必ずあいまいな領域が存在するから、ルールでは解決しにくい場面におかれたとき、優先すべきことを決めるのが状況判断なのである。
電話をかけ直す時間すら惜しい緊急の用など、私事にはめったにあるものでない。どうしても電話が大事ならそれなりの処置を講じ、運転中は基本的に電話には出ない。これが、良識ある状況判断が導き出す答えだ。
これらは極めて身近なことながら、決め事を重んじる世界や立場では、あらゆる場面で求められるのが状況判断である。
例えば国際関係。戦後71年を機に、オバマ米大統領が初めて被爆地広島を公式訪問することになったが、ここにも良識ある状況判断が働いているはずだ。
そのことが決め事に血を通わせていく。大切なことである。
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