創業300年を迎えた矢野(鑓田実社長)は、記念誌「矢野三百年のあゆみ」を発刊した。初代矢野久左衛門が近江国日野町から行商をはじめて桐生新町に来住したのが享保2(1717)年、2代目久左衛門が寛延元(48)年に二丁目に店舗を構え、時流を見据えつつ信用第一、「有鄰」の精神で商いを続けてきた。近江を出て他国で300年も事業を継続しているのは矢野だけということで、初の通史に近江日野商人館の満田良順館長は「創業300年の老舗は世界遺産に匹敵する稀有(けう)な存在」とたたえている。
記念誌はA4判326ページの大作で、編集・執筆には鑓田社長ら矢野関係者と郷土史にくわしい大瀬祐太さん、川嶋伸行さん、山鹿英助さんが加わった。本宅のあった日野町に何度も足を運び、資料を収集し聞き取りをし、桐生に残る書画や棟札、看板、引き札、ラベル、写真、図面なども精査し収録した。
第1章で江戸中期の桐生新町の状況を書き起こし、続いて「近江商人とは」を説く。全国ネットで物流を掌握し、織物は産地から全国へと流通した。醸造業で蓄財。経営理念「三方良し」「まとめ買いに薄利多売」「三里四方は釜の飯」「政治には口を出さない」「陰徳善事」などを実践した。
桐生でも荒物渡世から清酒醸造、質屋、「有隣」の商標でみそ・しょうゆ醸造を手掛け、絹買仲間にも名を連ねた。幕末の動乱期、6代久左衛門、はん夫妻に子どもがいないまま6代目が死去。ここで矢野家は後夫を迎えて7代とする。初代からの血統を断つ決断をしたわけだが、実は女系で、4代、5代、7代、そして8代、10代と半数が養子だった。
維新後は醸造部門を本店に、荒物に薬種、染料部門を増設して支店とした。特に化学染料の先見的な販売で桐生の織物産業を支えてきた。明治27(1894)年に酒造を廃業、呉服部門を拡充しており、昭和2(1927)年には五丁目に進出。「矢野デパート」で食堂もあり、二丁目には茶舗が開設された。
この新築移転の発展期の当主は矢野義、亡くなった9代の長女で相続時わずか5歳。10代久左衛門を迎えるまでは、支配人たちのほか9代の弟が経営手腕を発揮した。
11代が矢野昭。主人は国元に住むのが習いだったが、昭は襲名もせず、桐生に妻子とともに住むという改革者だった。地域社会に積極的にかかわり、二丁目蔵群は桐生市に寄贈し有鄰館に。そして12代は初めて創業家一族以外から鑓田社長が就任し現在に至る。
巻末には記念展で初公開された河窪三岱(8代の父)の「出山釋迦雪景」などカラー図版も豊富。1000部を作製し、希望者には3000円で頒布する。問い合わせは矢野園(電0277・45・2925)へ。
関連記事: