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河井継之助遺児伝説に新資料、渡航記録が口承裏づけ

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 桐生の近代史の謎のひとつで「河井継之助遺児伝説」に彩られた和田正秀が、口承どおりに米国へ留学していたことが外務省の海外渡航記録で裏付けられた。同家の末裔の人々が調べたもので、彼が出発したのは1885(明治18)年。新渡戸稲造や内村鑑三の米国私費留学に遅れることわずか1年。当時19歳2カ月で、記載によれば私費留学だった。

 正秀は1866年生まれ。長岡藩の軍事総督だった継之助の遺児として戊辰戦争さなかに桐生へ逃れ、久方村の和田勇七がすべて事情を心得て長男として迎え入れたとされる。

 そこから始まる和田家きょうだいの数奇な人生を収めたのが桐生タイムス社創刊70周年記念出版「晦魄環照」であり、正秀は「孤高の志士」編の主人公。

 文武両面に師範がいて、宣教師デビッド・タムソンに英語を学ぶなど、少年期は英才教育を受けた。明治新政府の黒田清隆が支援者だったようである。

 その黒田から、刀剣鑑定士の修業も積んだ正秀に、伝来の名刀剣が外国に流出している実態を調査してほしいという内命があり、留学は実現したと語り継がれてきた。留学の事実が裏付けられて、そこに至るいきさつの信ぴょう性も増した形だ。

 渡米はタムソンと一緒で、留学先はミシガン大学。87年に父勇七の死去を知り、翌年に帰国した。

 外務省の資料によれば1868年から85年までの間に米国へ渡航した日本人は男1558人、女113人。

 正秀は1929年、数え64歳で熊本で客死。1882年に桐生教会で洗礼を受け、共同墓地建設運動に奔走した功績が肇塋銘(天神町)に刻まれているほか、桐生市政功労者第1号、紺綬褒章受領者でもある。

 遺族は30年、菱町の文昌寺に刀剣鑑定士本阿弥光賀の名で墓碑を建てて「実父は河井継之助」と刻んだ。
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