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カスリーン70年、つながれる心

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 私たちの故郷がカスリーン台風の大水害に見舞われたのは70年前の1947年9月15日である。利根川水系に甚大な被害をもたらして、桐生で死者113人、33人が行方不明となった。

 市内にはいま、台風禍の記憶をたどれる水難供養碑が二つ立っている。一つは48年、被災者救済につとめた当時の市議会議員丹羽秀三さんが、水害直後に多くの遺体を安置した定善寺に私費で建立した。そしてもう一つが、被災者の一人だった中島隆次郎さん(94年、76歳で死去)が犠牲者の三十三回忌にあたる79年9月15日、多くの支援のおかげで遺された家族の今日があることへの感謝を込め、菱町一丁目の丘に建立したものだ。

 このときの慰霊祭に参列した一人の婦人が「もう一度慰霊碑をお参りしたいので場所を教えてほしい」と先日、弊社を訪ねてきた。数日前に歩いて探したが見つからなかったらしい。

 車での案内がてら、いろいろお話をうかがうと、婦人は8歳のときに水害に遭い、11歳年上だった兄を亡くしたという。

 住まいは新川球場近く。当日夕刻、新川の増水に危険を感じてみんなが避難を始めた。連れられて彼女が新川を渡り切った直後である。渡良瀬川堤防の決壊で流れが突如狂らんと化して、新川球場のスタンドをまくり、そばにあった高層建物の足もとをすくって一気に押し流していった。兄は、この建物に住む知人の荷物を階上に移す作業を手伝っていて巻き込まれた。

 あっという間の出来事だったそうだ。押し寄せた濁流が沿岸の電柱と電線を次々に巻き込んでいく轟音が、いまでもはっきり耳に残っているそうである。

 兄の遺体は職場の同僚が懸命に捜索してくれ、通夜も営んでくれたが、施設の損壊で火葬場が使えず土葬になったと、ひとつひとつ丁寧に思い起こして話してくれた婦人。碑の「水難仏故者名」に兄の名を見つけてから「15日までにここへ来られてよかった」と、花を生け、火をつけずに線香を供え、碑前にかがんでじっと手を合わせた。

 婦人は戦後、兄の分、そして若くして先立った夫の分も精いっぱい生きると心に誓い、笑顔だけは忘れずにきたという。

 帰り際、碑の「水害御礼御挨拶」を黙読していた。二度と災禍に遭わぬよう御霊に祈るその一文は「全国の皆様の御健康とお幸を御祈り申し上げます」という言葉で結ばれていた。
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