竹枝箒を頻繁に使う。購入するポイントは持ったときのほどよい重量と枝処理の丁寧さ。重いと疲れ、束ねが雑だと服や手袋にすぐ引っかかったりする。
そういう要求に応える国産品を商っていた地域の店は姿を消して久しい。現在はもっぱらホームセンターで品定めをしているが、満足のいく箒はなかなかない。ほとんどが外国製だ。
こんなとき、やっぱり日本製はものが違う、と思う。けれども、竹枝箒がそれぞれの住環境中でどんな人がどのように使われるかを熟知して製品化してきた文化と、そういう背景を一切知らない異国の人が経済競争の中で製造しているものを単純に並べては語れない、とも思う。
かつて本紙に、桐生で働く外国人講師が「自国文化ユニーク論」という随筆を寄せてくれたことがある。テーマはお国柄の違いや文化の差異。「どの国の人々も自分たちの社会だけがユニークな優れた社会だと信じたがる傾向があるけれど、それより、我々はまったく同じだということを認める方が大切で、お互いユニークであるというのはやめて友達同士でいましょう」と、こんな内容であった。
随筆は1980年代の世界をベースにした話である。文化の差異の問題の根は深く、現代社会においても、主張は少しも色あせていないと感じるが、それはともかく、話を箒に戻そう。
世界に冠たる日本製品にも始まりはあった。細かい配慮が商品の売れ行きを左右することを知り、気配りは信用を高め、信用は商いを潤滑にすると理解したうえで、品質を高めてきた道のりである。言い換えればそのほうが喜ばれるし、売れるという判断である。しかしこの部分に関しては国境を超えた価値観だ。だからこそ、世界は日本のものづくりを手本にしたのだ。
「ものは必要とされる形に落ち着いていく」。これは長年途上国の指導的立場にいて、提供した日本製品が本来と違う形で活用されているケースを少なからず見てきた人の言葉である。
時代と場所にあった形に工夫していくことはいつの世も、いまを生きる人たちの務めだ。
互いの立場を尊重しつつ高みへ向かう道筋探しは容易ではないが、不満を一方的に押し付けて、自分ができる工夫を忘れてしまえば思考は停止したままである。そして慢心が生まれ、気がつけば置いてきぼりである。
箒は結局、自分流に改良した。
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