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時間を尊ぶこころ

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 そのむかし栃木県境に近い境野町の人々は、当時の国鉄両毛線を利用する際は小俣駅で乗降した。歩いて帰る道すがら、確かな目印になってくれたのが諏訪神社のマツであったという。

 背の高い堂々たる姿はいまでもよく覚えている。マツクイムシ被害を受けて今世紀初頭に伐採されてしまったが、切り株の年輪を数えてみたら、樹齢270年の伝承どおりの年輪があった。境野地域の時を尊ぶ独特の文化性を感じたものである。

 同じ町内の機神様のムクノキは樹齢300年といわれ、かつては見事な枝ぶりだった。そもそもがこの一本の木から始まったらしく、松原の渡しとつながる太田街道の脇にあって、桐生へやってきた渡辺崋山や高山彦九郎もきっと、この木を目標に往来したと思われるのだ。

 いまの広沢町七丁目は一本木村と呼ばれていた。この名前の由来もおそらく一本の大きな木であったと推測できるという。

 桐生岩船線の境野町一丁目には、1947年のカスリーン台風の大水を知っている街路樹のアオギリがいまも健在だ。

 木はなぜそこに立っているのか。そっと耳を傾ければ、きっと見えてくるのが物語である。

 桐生地域地場産業センター駐車場の隅に立つサクラの老木の話題が14日付の本紙に載った。

 機能的な観点から言えばあまり意味がない一本の木がなぜ伐採されていないのかと、ふと疑問に思った一人の読者がひとつの推論を立てた。この情報を元に取材を進めると、確かにこのサクラは今はなき眼鏡橋の袂にあって、桐生の近代的な織物工場の夜明けや電力事始めを同時代体験した木である可能性が高まったという話である。

 こうなると、歴史的背景を踏まえて残した人がいたと考える方が自然である。一帯が変貌を遂げる前にだれかが声を上げたのかもしれない。そして、これにしっかり耳を傾ける役所の担当者がいたということだろう。

 一本の木が地域の目印として重用された時代の価値観は、今は昔の話である。鎮守の森にしても街路樹にしても、地域の暮らしと共存していくのは容易なことではなくなっている。

 そんな中で、時間を積み重ねていく大切さを知って黙々と自分の役割を果たし、後を次代に託すという態度で老木と静かに向き合った人々がいた。そういう心はいつか通じるのだと、あらためて思えた話であった。
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