Quantcast
Channel: ウェブ桐生タイムス
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2430

生産地と消費地の隔たり

$
0
0

 昔、農業者の知人が病気見舞いに訪れた病院で昼食の残飯が処理される様子を見た。「こんなに捨てられるのか」と、ため息をついた姿を思い出すのだ。

 ずっと米を作り続け、白米は一粒も無駄にしない環境で育ってきたから、手つかずのまま捨てられていく米がどうしても気になってしまったようである。

 いまの病院食の環境はずいぶん変わっている。おそらく改善は進んでいるだろうが、平生の外食においては、食べ残しのライスが回収されていくのはさほど珍しい光景ではない。そのたびにあのときの知人の気持ちがわかるようになってきた。それは筆者がこの9年、山里で米を作り続けてきたことで、消費地主体の価値観に生産地の意識が混ざり合った結果だと思う。

 きっかけは両親のリタイアで稲作の継続が困難になった友人の手伝いだった。春先の種まきや代かき、田植え、草取り、稲刈り、天日干し、脱穀と、9年間の作業で学んだことは多い。

 特に、見方が変わったのが人間一人の力である。山あいの風景の中で一人はほんとうにちっぽけな存在である。でも、そのちっぽけな力が粘り強く継続の力を発揮することで一帯の秩序は大きく豊かに保たれている。

 さらに収穫の季節にいつも驚くのは、どの田んぼでもモミはほとんど落ちてはいないという事実である。たとえ一粒でも気づけば拾う人びとなのだ。

 だがいま、存続が危ぶまれているのがこうした人びとが携わってきた昔ながらの小規模な農業の行く末である。言い換えれば、そんなふうに手をかけて世の中に送り出されている米が正当な評価を受けていないということの表れだが、その中間に立つ筆者としては、生産地の意識と消費地の意識の乖離はいったいどこからくるのか、あるいは何がそうさせるのか、たいへん気がかりなところである。

 国際競争という大義名分のもとであらゆるものが変わりつつある時代だから、もちろん農業も努力しなければならない。しかし、米を育てながら地域の環境を保持していくという一人一人の努力のあり方が生き残れないような仕組みで果たして、山間の隅々まで耕地となって風景と分かち難く結ばれている日本の国土が立ち行くのだろうか。

 世界を見ていかなければならないからこそ、足元を固めるのは大事である。農業とはまさにその足元だと思うのである。
関連記事:


Viewing all articles
Browse latest Browse all 2430

Trending Articles