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河井継之助の記憶

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 北越戦争の中心人物、越後長岡藩総督河井継之助は傑物だった。新政府の黒田清隆は彼の戦死を心から惜しんだという。

 継之助に実子はなかった。これが正史の見方である。しかし一つの外伝がある。実は江戸に1886年生まれの婚外子がいて、混乱の最中に牧野家(長岡藩主)出入りの商人の手で桐生に逃れ、機屋の長男として成長したという話だ。彼は米国で学んで帰国すると、今度は一家を畳んで自らは桐生を離れ、妹と弟には使命を課すように、それぞれの世界へと送り出すのだ。

 この話は、先日95歳で亡くなった板倉光夫さんとここ3年ほど、あれこれ意見を交わしてきたテーマであり、なぞだらけの行動ながら、彼が継之助の実子だとすれば説明がつくと、そんな結論で一致していた。

 彼の名は和田正秀、墓碑には河井利根之助と刻まれている。

 少年時代の彼はキリスト教の洗礼を受け、同時に日本古来の武芸と芸術を一級の師のもとで学び、米国人宣教師デビッド・タムソンと一緒に渡米した。

 この環境を整えるのは民間の力だけでは到底無理で、考えられるのは黒田の支援だ。同じころ黒田は長岡の地に「故長岡藩総督河井君碑」を建立し、継之助の再評価に力を注いでいる。

 正秀は妹テルを竹内家に嫁がせた。竹内夫妻は帝政ロシアに渡り、日本の参謀本部と直結して諜報活動に携わる。そしてここで培った人脈が後に、弟の茂木米吉が日本の政財界の舞台裏で活躍する素地となった。

 背景には、開国を強いられた日本が、富国強兵にまい進して列強入りを目指し、中国、ロシア、ドイツ、米英と次々に対立していく激動の時代がある。

 板倉さんは米吉の五男。伯母の竹内テルにもかわいがられ、父や伯母を取り巻く人々の顔ぶれをかねて不思議に思っていた。父も伯母も言葉は少ないながら正秀のことは断片的に聞いていて、なぞの兄姉と父の系譜をことあるごとに調べてきた。

 筆者との出会いは板倉さんが91歳を超えてからで、本日12面の「あのときこのことば」で紹介したように、筆者が持つ昭和維新と桐生の関係資料が、板倉さんの話と結びついたのだ。

 こうして本社創刊70周年記念誌「晦魄環照」は誕生した。

 板倉さんはこの記憶を何としても後世に伝えたいという意志を持っていた。それを受け止め、つなぐことができた。
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