子どものころ、怖いものはたくさんあった。いろんなことがわかってきて、そうした怖さは次第に薄らいでいったが、一方で、大切にしたいという畏れが芽生えていったのも、その過程ではなかったかと思うのだ。
むかし、屋根裏から不思議な音が聞こえたとき、「あれはアオダイショウだよ。ヘビがいるとネズミが出ない」と、そばの大人がこう説明してくれた。
「ヘビは家の守り神」とも言われ、なんだかそれがしっくりときて、以来、ヘビをみるたびに必ずその話が思いだされるから、子どもに対する大人の一言はゆめゆめおろそかにしてはならないなと、考えるのである。
きょうは節分である。最近は家庭で豆まきをする声を聞くことがなくなった。昭和の時代は夕やみ迫るころ、どこからともなく「鬼はそと、福はうち」が響いてくると、それを合図に各所で始まったものだ。さきがけはいつも年配者がいる家だった。
各家庭でやらなくなったと言ってしまうのは早計かもしれない。恵方巻きのような縁起物にはいまも人気が集まるのが人の世の習いだから、要因はやはり地域環境や住宅事情が大きいと思われる。心で声をあげ、豆をささやかにまいている人はまだまだいそうな気がするのだ。
節分に受け継がれてきた「福はうち鬼はそと」。改めて復誦してみると、これは自他の間を柔軟につなぐことば、付き合い方の思想である。身勝手ではなく、居住まいを正す誓い、難を除けたいという受け身である。
たとえば、ヘビが守り神だと考える人がいる一方、家の周りに小豆粥を入れた茶碗を洗った水をまき、ヘビよけのおまじないにしているという風習も地域の民俗誌には記されている。
人それぞれの事情の中で招き入れたり、退散を願ったり。恐れたり畏れたりする存在があることは、人が強く、他人にも優しく生きていく上でしっかりと持つべき感情であると、そう認めてきたからこそ、自分の暮らし方を顧みる機会を、人はさまざまな節目に設けてきた。
節分が過ぎて、あすは立春である。日の光はすでにだいぶ明るさを増して、幾つかの種類の鳥が冷たい風の中で巣作りを開始した。生きものの営みはひたすら繰り返されるのだ。
やり方は人さまざまにあっていい。気持ちを新たに迎える節目の行事は、これからも大切にしていきたいと思うのである。
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