あのとき彼は逃げなかった。地元で小さなガス店を営み、ライフラインを預かる立場。だれかがやらねば進まない。ひとけのなくなったまちで、そんな仕事に奔走する日々。東日本大震災の原発事故直後。もう6年も前のことになる▼一枚の写真がある。主のいなくなったビニールハウスで、彼が飄々と花の苗に水をまいている。幼いころから慣れ親しんだ思い出の花農園。避難した一家が戻るまで手入れを続けた。のちに再開した花農園の主は、「アイツがいたから」と涙した▼いわき市の出身・在住。最愛の妻と2人暮らし。世話焼きで人懐こい性格。どこへ行っても、だれと会っても、方言丸出しで、だれからも好かれた。そんな彼が2月26日付の地元紙に載った。「バイク転倒、男性死亡」。言葉が出なかった▼3年前、ある集まりで一緒に幹事をした。参加者に配ったメッセージ集に、彼は妻と綴った一文を投稿した▼「『こころのなか』にある面倒なことに、手を伸ばそう。それは、とても厄介なものだ。手を付けると、もう引き返せない。悩んで、迷って、もがいて、涙目になりながら、立ち向かっていこう。大丈夫、ここにいるみんなは、その姿を笑ったりしないよ」。合掌。(針)
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