1970年代は多くの社会の問題を抱えつつも、世の中の根っこは案外優しくて、筆者はそんな時代の東京で学生の4年間を過ごしてきた世代である。
誰もがアルバイトに精を出していて、仕送りには頼れないなど、働きたい事情は似たり寄ったりの学生ばかりだった。
本場のよさこい節を聞かせてくれたのはそんな仕事の縁で親しくなった高知の知人である。
12日に亡くなった歌手のペギー葉山さんの「南国土佐を後にして」の挿入民謡としても広く知られていたが、土地の節回しは格別に味わいが深かった。
その仕事場にある日、夜間は仕事をしながら歌のレッスンに励む男性が仲間入りした。家族のために稼ぎたいと事情は切実だったが、歌手を夢みる目が輝いていたことを思い出すのだ。
彼の歓迎会を開いた店は一つの部屋に座卓が六つほど並んでいて、それぞれに5、6人の客がいた。カラオケなどは普及しておらず、他所から飛び出すうたには鷹揚で、手拍子で応援したり大笑いしたりして、終わればすぐにそれぞれの座卓の話題に戻っていく。共通項がたくさんあった時代だから、きっと風通しも良かったのだと思う。
男性はあいさつ代わりに五木ひろしの「夜空」を歌いはじめた。すると、店全体が水を打ったように静まり返った。声の情緒や節回しと、どれをとっても上質な一曲が一瞬で場を支配してしまったのである。
だが、その後の彼がめでたくデビューできたという話はついぞ聞けなかった。プロとは厳しい世界である。でも、あのうたの力を疑う気持ちは微塵もない。洋楽一辺倒だった筆者の心に生まれた「民謡もいい」「歌謡曲もいい」の思いはあれから数十年、いまもそのままだ。
ペギー葉山さんの夫は俳優根上淳さん(故人)である。根上さんの父は森乙さんといい、森さんは桐高の音楽教師だった。
森さんの指導で活気づいた同校音楽部の中村善治さんが全日本学生音楽コンクールで優勝したのは48年のことである。
若くして亡くなったが、かつての仲間は、中禅寺湖でボートをこぎながら歌う彼のイタリア民謡に、湖面で遊ぶ人々が息をのんだ情景を忘れていない。そしてこの仲間たちが戦後の桐生の音楽文化を支え続けた。
うたを聞き、歌っているときの心はとても穏やかだ。人の生きる力であり、癒やしでもある。
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