28日は桐生市の春の市民一斉清掃である。家の周りや地域の道端、空き地などで、朝早くから各町会が、のびた草の刈り取りや、ごみ集めに精を出す。
イベントが終わった後のごみステーションはどこも目いっぱいだが、この日ばかりは、その分まちがきれいになったのだという実感が伴う光景である。
日常生活を送る環境がすっきり整うのはみんなが望むところである。ただ、人それぞれに目のつけどころは違うから、隅々まで刈り取られた草々の様子を見て別の感慨を持つ人もいる。たとえば、かつてはどこでもあった在来種の多年草がかなり危機的な状況に直面していることに気づいている人びとの場合だ。
本紙で「季節のことば」を連載中の佐鳥英雄さんも多年草の危機に心を砕く一人である。
レッドデータブックに記載されるほど深刻ではないが、たとえばヨモギのように、いたって身近だった植物ですら、その気で探さなければ見つからない時代になってしまったという。
ようやく探して、見守っていると、あるとききれいに刈り払われている。せめてタネを収穫したいと思いながらも、その猶予がないケースがほとんどだ。
といって農家の人が田のあぜ道を刈るのは当然だし、一斉清掃ともなれば、一生懸命になる市民も少なくない。そんなふうに人が勤勉さを発揮する領域に保護を投げかけて、いたずらに摩擦を生むことは避けたい。
佐鳥さんがいま考えているのは、滅びゆく野生植物のリストをつくり、協力者を募って、庭や空き地の片隅などを利用して守り育てていけるネットワークを構築していくことである。
外部環境の影響を受けない場所を確保し、保護と増殖を目的に、一種について3カ所ほどを基準とする。増えすぎて困ればみんなで対応し、枯死したり消滅しても責任は問わず、協力が困難になった時点で役割は終了するといった具合に、関わり方はごく緩く、しかも少人数の集まりを理想としたい。そういうつながりで灯をともし続けることができないかという提案だ。
立場が違えば論理も違い、同じ土俵に乗せたところで答えが一つにまとまることはない。いまはそういう世の中である。
大きな価値観の外縁に小さな価値観を共存させてじっくり育てていこうとする試みはこれからの社会を変えていく力になるかもしれないと、感じた。
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