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想像力の大切さ

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 会話の最中にスマホをいじりながら「ほんとですね」と、情報の裏付けをとる若者がいる。

 辞書機能を携帯しているような現代だから使いたくなるのは当然として、会話は大抵、そこで腰折れになることが多い。

 まあ、その程度で折れるくらいだからたいした話ではないのだが、正直、そんな急がなくてもよいのではないかとは思う。

 むろん、すぐに答えが分かった方が無駄はないと、これも一つの立派な考え方である。

 でも、物事を理解するプロセスにおいて、疑念を抱きながらもあれこれ想像するという部分は結構重要だったりするのだ。

 歌を聞き、音楽を楽しみ、文学に親しみ、絵を見て、刺激を受けても受けなくても、それがなぜかの答えは簡単に出ない。

 というか、文化芸術はわからないことを温め、考え想像することで、人それぞれに異なる答えのあり様を見い出していく手助けをしてくれる世界である。

 最近の子どもは、1対1で話し合えば自分のことだと理解できても、大勢に語りかけている内容が自分にも向けられていると理解するのは苦手だと、これは現場の先生から聞いた話だ。

 すべての作業には準備があって本番があり、後片付けがある。けれど今の教育は往々にしていいとこ取りで、面白い部分を体験し、地味なところや根気のいる部分は説明するだけで終わり、つまり答えだけを示して、結局、知っているつもりで終わらせてしまうとも聞く。

 だが、面白いことだけの体験や、すぐに答えの出る環境などはこの世には存在しない。答えなどはいつまでも探し続けるもので、その道筋で心を支えてくれる豊かな想像力は、情報の量ではなく、費やしてきた時間の質で養われるものだと思う。

 学校でのいじめが後を絶たない。第三者機関の調査でいじめが認定され、学校の隠蔽体質が問われたりと、そのたびに報道では大きく取り扱われてきたが、気がかりなのは、にもかかわらず、同じことが繰り返されてきているという現実である。

 例えば、周囲の人がそれをいじめと認識していなかったことが、見て見ぬふりでもなく、目の前にありながら見えていなかったとしたら、問題は一層深刻という気がしてならない。

 現場を見て答えを導き出すのではなく、人を見て、想像で感じとる優しさの領域が、現代は欠落しているのではないか。
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