台湾で停電が発生し、全世帯のほぼ半数に当たる670万戸に影響が及んだと、先日報道があった。作業員の操作ミスで天然ガス発電所への燃料供給が数分間停止した。これをきっかけに安全装置が作動して発電がストップ。15日の夕方から深夜にかけて、約5時間にわたる大停電が発生したのだという。
猛暑で電力需要が膨らみ、供給量が逼迫していたことが、事態を大きくしたとの見方もある。日本と同じ地震国の台湾では、東日本大震災以降、脱原発の動きが強まり、島内にある6基のうちの3基は現在、運転を停止している。これを稼働させて供給量を増やすべきだと、停電のあと経済界から声が上がったと、ニュースは伝えていた。
震災以降こうした声を聞くたびに決まった違和感を覚える。それはたぶん、原子力という強大なエネルギー源から大量の電力を取り出そうという発想に対する疑問であり、科学技術へのそこはかとない不安でもある。
電力の大量生産が、その大消費地である大都市の暮らしや国の基幹産業を支えている。戦後復興期、まずは経済に絞って立て直しを目指した国のリーダーたちは、電力の生産拡大に努めてきた。消費できる電力の量はそのまま、私たちの暮らしの豊かさや安心の指標にもなった。
3・11の大震災は、こうした大量生産の仕組みが、じつは危ういバランスの上に成り立っているものだということを、世間に知らせた。強大なエネルギー源は、大勢の人の暮らしを奪い去るだけの力もまた併せ持つ。そして、人はまだその能力を管理しきれないし、うまくつきあうすべを見つけ出せていないのだと、事故処理の工程などを通して認識はさらに深まった。
ここ数年、地方創生の合言葉が叫ばれている。このことは、電力を大量生産し大量消費する時代から、手に負える技術で小さく生み出し、それに合わせた暮らしを目指すという、これからの暮らしの方向性をも示しているはず。自分で手に負える暮らしを築いてゆこうとする姿勢がますます大事になる。これを空間でとらえれば、たとえば郷土と呼ばれる広がりのことであり、さらに狭く、区や町会といった地域を指すのかもしれない。
数分間のミスにより、全戸の半分が停電にさらされた台湾だが、そこから学ぶことは多い。手に負えるという感覚を大切にすることが基本になるはずだ。
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