司馬遼太郎の「坂の上の雲」を、新井淳一さんの朗読(録音テープ)で聞かせてもらったことがある。90時間の目安を73時間に早め、聴く人が次を待つ気持ちに合わせたテンポが小気味よく、何よりその声には、心にしみこんでくる響きがあった。
桐生を拠点に独創的な布を世界に発信し続け、地元の文化芸術にも足跡を残し、25日、新井さんが亡くなった。享年85。つねに精力的だったその仕事が人々に衝動を与えてきた過程で、新井さんの粒立った言葉と生きた響きがつないできたものの大きさを、改めて思うのだ。
「あらゆる表現において段取りこそが大切。ぼくはそれが朗読で身に付いたんだ」と、いつか語ってくれたことがある。
旧制桐中に入学し、終戦を境に劇的に変わる世の中を見つめつつ、新制高校を卒業した。
戦後桐生の歩みの中で、昭和20年代(1945~54年)は若者の躍動が際立った時代である。
演劇や人形劇を通じ、この世代の中心的役割を果たしていた新井さんのことは、桐生の外で活躍する人々の取材の折に、先方からよく尋ねられた。分野は違えども、互いに刺激しあう関係の中でいかに新井さんの存在が大きかったかという証しだ。
新井さんいわく、「生きた響き」を教えてくれたのは演劇の師・風見鶏介さんだった。文字の大切さは小池魚心さんに学び、演劇青年としては桐高の野村吉之助校長の影響が大きかった。朗読は中野重治を読む宇野重吉から吸収したという。
そうやって当時の若者は古いものから新しいものを生み、賛成も反対も織り込んで、あらゆる世代を一つにつなぎ、復興の力に転化していったのである。
桐生市有鄰館を表現の場とするために先人がどんな熱意で臨んだのか。舞台で語る新井さんの愛惜に満ちた声を思い出す。
また、同郷の英雄、境野出身の町田一郎中佐を心から尊敬していた新井さんは「終戦間際の5月24日に、米軍占領下の沖縄北飛行場に中佐が決死の胴体着陸を敢行し、空港が使用不能となる間に多くの民間人が逃げ延びることが出来た」と、晩年の本紙でその思いをしたためた。
「町田一郎さんの辞世の歌は明治天皇の御製だったので、そのことをいつか、ふれておいてほしい」と、電話で言付かったのは先月のことである。
いつものように静かで、しみ入るような声だった。合掌。
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