22日は衆議院議員選挙の投票日である。憲法9条の改正問題、原発のこと、北朝鮮のこと。そして社会保障や教育、経済政策や増税をどうするか。山積みとなっている重要課題を、加計問題や森友問題という一強のひずみを抱えたままの与党に委ねるのか、それとも、多くが未知数の野党に託すのか。一票の行使に悩む総選挙である。
ただ、選ぶという行為はどんな場合でも簡単ではないし、優先順位をきちんと見極め、政治姿勢や言動も見据えたい。選挙は選ぶ側の軸が試されるのだ。
未来はどうあるべきか。大切なのは過去ではなく、いまでもなく、これからである。政策はすべてそこに特化され、私たちはそのつもりで考えねばならないが、軸はそれだけではない。
たとえば「責任」ということばに着目してみたい。選挙期間中、多くの政党や候補者から聞かれるのが公約の実現のために責任を持って取り組んでいきたいという当然の決意である。
しかしそうした政治家の約束ごとに対して、私たちは半信半疑だ。原因はもちろん、過去に繰り返されてきた政治の姿に責任がある。それが現実だという冷めた見方もあるが、公約が守られてきたという実感が乏しいのは如何ともしがたい、なんとも残念な話だ。
責任は政策と並ぶ、もう一つの軸ともなり得る要素である。
政党や政治家個人の実績に対しては、主張に一貫性はあるのか、あるいは言動は一致しているか。こんなふうに独自の角度から、自分の判断材料を見つけ出すことも可能だろう。
もちろん、世の中の有り様は政治家だけに責任があるわけではない。それぞれの立場に果たすべき責任があり、守られるべき権利があり、その兼ね合いで社会の秩序は保たれている。
日々の暮らしのどこまでが自分の権利でどこまでが自分の責任かの一線をしっかり引き、状況に応じながらそのすみ分けを心得ていくためには、やはり範となる言動が必要なのだ。
世の中の自由を大切にしたいなら、個々がしっかりと責任を果たす。その目標となるような態度を率先して示した政治家は過去に少なくない。現代においても、私たちがそれを期待する気持ちは変わらないと、候補者には心してもらいたいと思う。
投票に行き、思いを託した一票を投じる。それは権利であるし、果たすべき義務である。
関連記事: