衆院選が終わった。自民党が単独過半数を占め、連立を組む公明党と合わせ与党は3分の2の議席を維持。与野党の枠組みは公示前と一見変わらず、徒労感ばかりが残る選挙だったと、そんな声を耳にした。
ただ、何も変わらなかったのかといえばそうではなく、希望の党の登場や民進党の分裂によって野党の中身は大きく変わり、各党の色づけははっきりとし、整理された印象がある。
選挙期間中、各党の候補者は政策を唱え、自らの考えを主張し、有権者に訴えかけた。そうした声や、日ごろ抱いている印象、知人との会話で得た情報などをもとに、わたしたちは候補者を選び、政党を選択した。まずは結果を受け入れたい。
その上で、あえて伝えたいのは、選挙戦で主張した政策や考えについて、国会の場でこそ、ぜひ議論を深めてほしいという、当たり前の願いである。
政治は可能性の芸術であり、関係性の科学なのだと、19世紀のドイツで首相を務めたビスマルクは、そんな言葉を残している。関係性の科学ならぬ政治力学という言葉ならば耳になじみはある。でも、可能性の芸術と言われてもなかなか実感がわかないのが今の政治ではないか。
ある政策について、議員どうしが考えを述べ合い、お互いの長所と短所を認め合い、よりよい政策に向けて可能性を模索する。そうやって理解を深めた上で政策を合意形成するという過程に、可能性の芸術という言葉が当てはまるのだとすれば、昨今の国会で繰り広げられる力まかせの合意形成は、まるで異質のものだ。甘い理想を語っているようにさえ聞こえてしまう。
それでいいのか。国会は主張の場であるとともに、相手の声を聞く場でもある。主張のみが響く選挙戦とはそこが違う。議員は有権者に訴えるだけではなく、議員どうしで熟議してほしい。議会制民主主義の基本だ。
表現の自由とは、社会への贈与であると、どこかの本で出合った言葉がある。言葉に限らず、誰かの表現行為が人の心を動かし、社会に影響を与え、生きにくさを抱える人を励ます。
政治家も表現者である。政党に属する前に個人として存在する。他者の言葉に耳を貸し、それを踏まえて自らの考えを示す。数の力に頼る前に、まずは個人の言葉を磨き、対話を重ね、協和の可能性を示してもらいたい。ささやかな願いだ。
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