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町名の由来をふと思う

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 読者から「西桐生駅」の名前の由来を尋ねられ、「上毛電鉄が開通した1928年、駅のできた場所は大字西安楽土と呼ばれていて、西が駅名に入ったと聞いています」と答えた。そんなふうに対応できたのも、地名研究の先達がいたおかげである。

 平成の大合併以前の桐生市の場合、1889年の町制施行以降に合併や町字整理、住居表示などで合わせて13回の地名改称が行われている。このなかで最も規模が大きかったのが1929年である。それまでの大字を廃止し、38の町名に改めた。

 この町名改正は昭和天皇の即位を祝う御大典記念事業であった。西桐生駅の所在地はその折に宮前町となった。白髭神社の宮前がその名の由来である。

 神社にちなんだ地名はほかにもあった。例えば織姫は織姫神社からとっている。稲荷は稲荷塚古墳から、そして琴平は15年に分祀した琴平神社にちなんだが、実は浅間神社の間違いだったというのがオチであった。

 そのほかに、地内開発の功労者3人の名前から東茂栄と各1字をとって巴が生まれた。昭和の御代の繁栄を願い、官庁街には永楽の名がついたのである。

 しかし、新しい名称はやはり少数派であって、多くは今泉や安楽土や堤、元宿や新宿のように古くからの地名に由来した。

 安楽土はいまの東二丁目や三丁目、五丁目に分かれた。もっとも、安楽土という名称も元をただせば荒戸という字面を嫌って安楽土に変えたもので、その縁起は永楽に通じるのだ。

 ここで全町名の詳細な紹介はできないが、昭和になって合併した村についてふれると、境野は上野(群馬)と下野(栃木)の境に位置しているところから名づけられた。広沢は、丘陵から流れ出る沢が絶え間なく水を供給している広い台地の意味だそうである。また梅田は古くから梅林の里と呼ばれていたことに由来する。川内は渡良瀬川の内側のこと。相生は、相生の松の共存共栄の願いを込めた。菱は菱形からとった名前である。

 平成合併の新里は、新しい里をつくるという理念を込めて1889年に誕生した。黒保根は久呂保の嶺呂、赤城山のことだ。

 そこに暮らす人々の思いはこのように、地名の歴史に投影されている。ときには自分が寄って立つまちの足元に思いを馳せて、ふるさとがどのように歩んできたのかを、考えてみるのも楽しいものである。
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