雪の朝、歩いて出勤した。このとき橋上で体験したことを基にして「10分の2」という数字に宿る力のことを考えてみた。
所要時間は1時間と踏み、もちろん泥はねを受けても構わないくらいの支度で固めて、難所である桐生大橋側道に臨んだ。
ここがなぜ難所かは2年前の大雪のときに歩いて、わかっていた。この橋の自動車道は雪どけ水がたっぷりたまり、車両は結構な量の水をはねて通っていく。そして泥水の飛沫は側道フェンスの網をすり抜け、歩道面に容赦なく落ちるのである。
泥はね運転で人に迷惑をかけないようにすることは道路交通法に定められた運転者の義務である。とはいえ、雪の日に歩く以上はそれなりの覚悟と注意を払い、自衛するのは当然のことであって、このことをもって泥はね運転云々を言うつもりはない。雪道運転で操作に気を使いながら、加えてフェンスがあることで歩行者の存在が気にならなくなっていたとしても、ある意味仕方がないと思うからだ。
雪はまだ降っていたので傘を差しながら、車が近づいてくると傘を泥はねよけに使い、そうやって進んでいった。これは前回の体験に学んだことだが、そのうちに側道の歩行者の存在に気づいたか、あきらかに徐行する車が出てきたのである。橋を渡りきるまでの10分間、その割合がおよそ10台に2台だった。
その昔、市民運動に取り組む人が「10人のうちの2人の意識が変われば、運動はきっと実を結ぶ」と語っていた。以来、いろんなことの目安として意識してきた「10分の2」である。
社会におけるこの目安は「5分の1」や「100分の20」と同列に扱うことはできない。
「5人に1人」はあくまでも1人だし、「100人に20人」となるとこれはむしろ大勢力といっていい数字になるだろう。
つまり「10分の2」で大事なのはあくまで「2」という分子の部分だと解釈した。一人と一人の思いがつながって2になることが人間の社会にとっては意味を持つのであり、いったん2になれば分母が増えても埋没することなく、世の中の意識を変えたり秩序を守っていく力の基本単位になりうるのだと。
一台の車の気遣いにうれしい気分を味わい、さらに一台の気配りに接して「世の中、捨てたものじゃない」と感じた。あのとき「10分の2」はそういう一線になった気がするのである。
関連記事: