群馬大学理工学部を訪れた際、部屋の壁に掲げられた1枚の色紙が目に留まった。
学部長室だったと思うのだが、しっかりとした筆跡で「知自在」とある。筆者は化学博士の福井謙一さん。有機化学反応理論を体系化した実績が評価され、1981年、日本人初のノーベル化学賞を受賞している。
その福井さんが88年10月、桐生キャンパスを訪れ、特別講演をしている。70歳のころである。色紙はおそらく、そのときにしたためたものだろう。
以来、この言葉が脳裏に焼きついて離れない。知自在とは一体どういう意味なのか。しっかりとらえきれずにいるのだ。
辞書を開けば自在とは、束縛も支障もなく心のままであること、思いのままの意味。色紙の言葉は、ものごとを探求しようとする姿勢の中にこそ自在があり、それこそが大切なのだと、科学者に教え諭しているにも思えるのだが、それだけなのか。
知識や知恵を身につけることは、私たちの生き方や暮らし方をより豊かにするための方法論である。新たな知識に触れることで、自分がこれまで何にとらわれていたのか、今どんな場所にいるのか、客観的に理解するための指標ができるわけだ。
韓国・平昌で行われている冬季五輪で、羽生結弦選手が、小平奈緒選手が、相次いで金メダルを手にした。選手たちの、無駄のない小気味よい滑りを見ながら、ふと脳裏に思い浮かんだのが「知自在」の言葉だった。
スポーツ選手にとっても、知るという行為は練習の基本に違いない。まだ成し遂げたことのない領域を目指して、自分の身体を鍛えるためには、自分にはいま何が足りないのか、見つめる冷静な目が不可欠だろう。
まだ眠っている未知の能力を探し、それを目覚めさせ、自分の意志で操れるようにするために、練習を繰り返す。それは長年の暮らしの中で、徐々に固まってゆく動作の領域を解きほぐすためのレッスンでもある。
自分ひとりで探すだけでなく、人とのつながりの中で出合った言葉が、考え方が、彼らや彼女らにヒントを与え、エネルギーを注いだに違いない。
アスリートの動きを見ていると、私たちは束縛から解放されたような心地よさを覚える。それは、人がこんなにも自由に、自在に動ける生き物なのだと、その可能性を改めて示してくれるからなのだと思うのだ。
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