桐生・みどり市には現在、東日本大震災の津波や原発事故で故郷を離れた避難者27世帯62人が暮らしている。その大震災からあす11日で7年。避難指示が解除された地元の町に帰郷した人、子どもと地域になじんで桐生定住を決めた家族、孫の巣立ちを機に故郷近くの新天地に移る夫婦…。桐生地区で過ごした7年の月日を経て、再出発を決意した避難者の思いを探る。
「元気でやってっから」 浪江町に戻った田中さん
「まいっちゃったよ。いざ地元に戻ったら、店も、病院も、パーマ屋も、なあんにもなぐて。困ったのなんのって」
そう元気よく愚痴るのは、福島県浪江町に一人で暮らす田中弥奈子さん(83)。桐生市内で約7年の単身避難生活を送り、2月上旬に帰郷したばかりだ。
震災前も一人暮らしだったが、まちなか住まいで近所は顔見知りだった。避難先の桐生では郊外のアパート暮らし。たまに避難者と市民の交流サロンに顔を出す程度で、あまり人と交わらない生活が続いた。
昨年3月末に浪江町中心街の避難指示が解除され、同8月に元の住まい近くに町営住宅が完成。町役場からの再三の誘いに応じて、その町営住宅に移り住んだ。
たしかに冒頭の愚痴の通り、浪江町の復興は道半ば。しかし、田中さんの声は桐生にいたときよりも明るい。
「同じ建物に住む夫婦がいい人で助かってる。町役場そばに店が出るんだけど、昔から知ってる人ばかり。毎日ご飯作りに来てくれる人もいるし…」
心残りは桐生で世話になった人たちにお礼もできずに引っ越したこと。「元気でやってっからと伝えて。相変わらず愚痴りながらだけどね」と笑う。
「もう避難者じゃない」 桐生に新居構えた一家
避難先の桐生を終(つい)の棲家(すみか)とする覚悟を決めた家族がいる。
福島県南相馬市から桐生市へ、30代夫婦と子ども3人で避難している一家。約7年暮らした市営住宅を出て先日、ローンを組んで近くに新居を構えた。
「この地域の人たちに避難直後どれだけ助けてもらったか。子どもを通じてなじむことができた。これからもずっと住み続けたい」と妻が一家の思いを代弁する。
だからこその思いもある。避難者という言葉への違和感だ。補償もない中で借金しての自宅購入。子どもたちは群馬の言葉を話し、震災前の記憶はほとんどない。
「福島から来たことは周囲はみんな知っているし、隠してなんかいない。でも、もう桐生の人になりたい。いい意味で『もう避難者じゃない』と思ってもらえたらうれしい」と妻は本音を漏らす。
「自分たちも踏み出す」 いわき市に移住の夫婦
福島県大熊町から桐生地区の市営住宅に避難している80代の夫と70代の妻。5月ごろに同県いわき市の災害公営住宅に移住することを決めた。
震災直後に同じ市営住宅に息子夫婦と孫も避難したが、孫たちが大学に進学して親元を離れたのを機に、親夫婦が先に福島県に戻ることにした。
しかし、戻るとはいっても、故郷の大熊町には原発事故の影響で戻れない。そこから50キロ以上離れた新天地での再出発に「不安はある」と妻は語る。
その一方で、「この7年で孫も巣立った。自分たちも踏み出さないと。移住先の近くには兄弟がいて心強いし、なじみのある福島の言葉はほっとする」と前を向く。
関連記事: