「カワラナデシコ」という表題の読者随筆が手元のファイルに残っている。こんな概要だ。
いつもの河原で初めて見つけたカワラナデシコ。見えないときは人に教えられて初めて分かるのに、一つ見えると次が見えるようになり、何年目かに群れと出合い、花に囲まれて至福の時を持つ。だが、そのカワラナデシコがある日、河原ごとなくなってしまう。ブルトーザーが入って運動場が造成されたからだ。「どこかに避難させておいて運動場の草地にまた植えてやればよかった」「とても惜しい」と後悔の念にあふれていた。
カワラナデシコは桐生市域ですでに絶滅したそうだ。先日の本紙「反射鏡」で桐生植物誌の編者、佐鳥英雄さんの「自然保護について」にそう書かれていたが、佐鳥さんが同欄で伝えたかったのは別の事例である。
さる9月のこと、県内で稀なヒメクズの自生地で草刈り作業が行われていることを知り、現場に行って責任者に事情を説明し、「種を採りたいので刈り残してほしい」と要望した。しかし佐鳥さんの願いは届かなかったのである。話の行き違いなのか、だれに頼めばよかったのかと、そのくだりが胸に応えた。
前置きが長くなったが、この二つの寄稿の間には実は30年という時が流れている。これは驚くべきことだ。自然環境の大切さが叫ばれ、日常の意識の重要性は理解されているにもかかわらず、管理の実態は何も変わっていないという事実にである。
カッコソウのように自生地ごと守らねば残せないという重大な話でなく、平生のちょっとした気配りで相当に改善されるはずなのに、動きだしたら止まれない縦割り社会の構造は、こうしたひと呼吸の存在すらいまだ許していないということだ。
大好きな花を愛で、ひそかに会話を楽しんだりと、植物が好きな人はこのまちに限りなくいる。だが、関係性があまりにも多様で、個人的な思いが社会的なまとまりを形成しにくいのも事実で、気持ちはあっても、横の連携や融通が利かないし、かみあわないままの今日である。
しかし、一種また一種と希少種が減っていく現実の中で、やるべきことは決して困難なことでなく、結局は心遣いなのだ。
「ちょっと待って、そこには大事な花がありますよ」「いったん移し替えて植え直しましょうよ」。もっと大きな声にしていきたいと思う。
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