Quantcast
Channel: ウェブ桐生タイムス
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2430

あかりを絞る暮らし

$
0
0

 5月の夕日が末広町通りの伸びる先へ落ちていくのは、桐生ガスプラザの交差点に立って西を眺めた月半ばの風景である。

 太陽はいまも軌道を北寄りに進めながら、やがて夏至を境に回帰に転じ、桐生まつりの七夕飾りの中、再び同じところに沈むのだ。この間の2カ月余がまさに桐生の夏本番だが、桐生ではすでに真夏日を記録し、23日の気温は全国最高となった。

 ことほどさように暑い夏があたりまえになった現在、冷やすだけでは何の解決にもならないと、だれもがわかっている。課題のありかに目を向けたい。個人的には家の明るさに工夫を凝らしていこうと思っている。

 ポイントは、例えば何を心地よいと感じ、何を暑いと感じるかである。住みやすい環境のヒントを見いだしたいのだ。

 軽井沢のまちを通ってみて気づくのは、見慣れているコンビニや大型店の建物の色使いや看板の大きさが軽井沢仕様になっていることである。景観上のしばりがあるのだろうが、避暑地がそうしているのは、それなりの心理的な要因がそこには存在しているということだろう。

 桐生市でも最近、景観条例に基づく色彩ガイドラインの啓発に力を入れ始めたが、これなども暑さ対策と無縁ではない。

 田舎暮らしの知人が久びさに東京へ行った。「夜をあんなに明るくする必要があるのだろうか」としみじみ語ったが、隔たりを感じたら、それが課題だ。

 夜空の星が見えないことは現代の都会の当たり前の姿であっていいのか。家の中から暗がりが消え、想像力をかきたてる環境がなくなった。にもかかわらず、世間はまだ明るさを増そうとしているようにみえる。ヒートアイランドとの関係を考慮すれば舗装やメガソーラーの現状にも一考が必要ではないかと。

 明治の初め、人びとは石油ランプの明るさに驚いたというから、慣れには際限がない。裏を返せば、暗い環境に慣れていくのも可能ということだろう。

 昔の人の日記はどんな日でも自然描写を入れた。それだけ花鳥風月との距離が近かった。遠ざけたのは明かりである。

 日記を書くことも暮らしの意識を改めていく一つの手段になる。夜、アオバズクの声を聞いた。朝、カッコウが飛んできたと、日々の現象に目を凝らし耳を澄ませば、未来はきっと不必要なあかりを絞る生活へと導いてくれる。そんな気がするのだ。
関連記事:


Viewing all articles
Browse latest Browse all 2430

Trending Articles