ずいぶん昔に知人から「処分するのはもったいない」と謄写版セットをもらった。かつてはどの学校にもあり、50代半ば以上の人なら使った経験もあることだろう。ガリ版である。
日々配られる印刷物、旅行のしおり、復習のテスト。当時はどれもガリ版刷りだった。
蝋引きの原紙に鉄筆と鉄やすりを使って文字を刻み、木枠にはめ込んでインクを塗ったローラーでプレスする。鉄筆で原紙を切るときにガリガリと音がするからガリ版と呼ばれ、みんな担任教師の直筆だった。板書とガリ版のきれいなことが教員の必備技術だった時代である。
そのころの教育現場をよく知る人に話を聞くと、当日の出来事を簡易な印刷物にして子どもに伝えることなら、さほどの時間をかけずにできたという。
担任が腕に手甲をはめ、刷り始めようとすれば、子どもはすぐに「先生、それ何」とみんなで寄ってたかり、その作業を見て体験して覚えた。謄写版はエジソンの発明であると、授業で学ぶよりも分かりやすかった。
そのガリ版がいつしか学校現場から消え、コピーやワープロやパソコンに変わった。では先生たちがガリ版刷りに費やしていた少なからぬあの時間は何に変わったのか。年配の元教師に聞いてみたかったのはそこだ。
「いまの先生は子どもに発信することよりも、おそらく、計画書の作成や報告書のまとめなどに追われているのではないだろうか」との感想である。
成果や効率がモノをいい、何事にも数値が求められ、問題を起こさないことが大前提になった管理社会のもと、教師も子どももパソコンに向かい、互いが向き合う時間は減ってきた。
そしていま、情報のセキュリティーシステムがパソコン操作にたけた子に破られる時代になった。世の中をしっかり見てほしいのに、スマホ画面から目を離せない人も確実に増えた。
さらに、はんらんする情報に追われ、分かっても分からなくても不安がぬぐえず、気ぜわしさや忙しさが先立って、言葉もギスギスしてきた昨今である。
むろん現代に謄写版の役割はない。これはあくまで考え方である。あらゆる仕組みがブラックボックスだからこそ、せめて子どもには、直筆で個性が通じ合うような生身の「場」で人生の設計図を描かせてやりたい。
きょうから7月。一年の折り返しに立ち、そう思うのだ。
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