布団店の店主が200年前の布団綿を見せてくれた。200年前といえば江戸時代の後期、町人文化華やかなりし文化文政のころである。繰り返し打ち直されてきた綿の色は、さすがにやや飴色がかり、くたびれてはいるものの、見た目は十分に綿の姿である。快適な眠りを約束してくれるような、ふんわりとした状態に復元することは困難だったようで、ようやく現役引退と相成ったそうだ。
一つのものを代々受け継ぎながら使い続けてゆくという価値観を、私たちは戦後のどこかで置き去りにして、経済成長にまい進してきた。同じものを大量に生産してコストを下げ、魅力的な広告で人びとの「欲しい」と思う気持ちを刺激し、そうやって購入を促し、不要なものを捨て去ることで経済を回す。
新製品を手にすることが豊かな暮らしにつながり、結果として社会の発展に寄与しているといった意識は、私たちの心のどこかに存在している。消費は美徳の言葉が生まれたのも、こうした意識によるのだろう。ただ、この言葉の裏側には、贖罪の気持ちもまた含まれていたのだと、今になって思うのだ。
価格にはとらわれず、できるならば必要なものを必要な分だけ手に入れ、なるべく大事に使い続けたいと、そう思う気持ちを、私たちは心のどこかに保ち続けている。地球という限定された環境の中で、資源の有限性が見え始めている今の時代ならばなおのこと、いいものを大事に使おうという価値観が見直されてもいいはずなのだ。
つい先日、浴衣を着た若い女性たちと話をしたが、身に着けている衣装は母親や祖母から譲り受けたものなのだと、うれしそうに語っているのを聞いた。祖母が嫁いできたときに持参した布団を、今も娘や孫が使い続けているといった話も、布団店で耳にした。こうした話を聞きながら、改めて愛着という言葉を思い浮かべていた。
インターネットのオークションや中古品を扱う店、骨董市などをのぞいてみれば、おびただしい物であふれている。その中には愛着あるがゆえに捨てることができず、誰かの役に立ってほしいという願いが読み取れる物も少なからず存在する。つくり手や使い手の顔が見えればなおさらのこと。「もったいない」だけでは片づけられない、愛着という価値観は、豊かな暮らしの大事なヒントなのだと思う。
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