大相撲の第55代横綱で、日本相撲協会理事長の北の湖親方が亡くなった。62歳、死因は直腸がんによる多臓器不全だったという。九州場所で横綱白鵬がみせた奇襲猫だましについて、「横綱らしくない」との苦言を呈したと、そんなコメントに接したばかりだったので、突然の訃報に驚いてしまった。
北海道に生まれた北の怪童が初土俵を踏んだのは、1967年のこと。そこからスピード出世を果たし、7年後の74年には21歳の若さで横綱にまで上りつめた。70年代から80年代初期にかけ、横綱輪島とともに一つの時代を築き、角界を背負って立った。訃報を報じた全国紙社会面の見出しに、そろって「憎らしいほど強かった」と打たれているのを見ながら、大相撲が家庭の茶の間を賑わしていた時代のことを思い返した。
戦後、テレビの普及とともに、大相撲は各家庭の茶の間に入り込み、世代を超えて家族に共通の話題をもたらした。個人的な記憶をひも解いても、相撲が放映される時期になると、夕食前の夕方、祖父や祖母と一緒に居間でテレビ観戦するのが日課となり、毎日盛り上がった。黄金のまわしを締めた輪島との千秋楽対決は、毎回楽しみであり、友達との話題でもあった。そのせいか、つねに話題の中心にあった北の湖の強さは、いまも記憶の中であせることがない。「憎らしいほど強かった」のイメージは、あの時代を生きた人びとを貫く印象なのだろう。
85年、横綱北の湖は引退をするが、このころからテレビは家庭内の各部屋へと増殖し、やがて1人1台の時代が到来する。対照的に、茶の間は家族団らんの場としての機能を薄めてゆく。子どもたちに人気のスポーツも、時代とともに移り変わる。祖父と孫が一緒に相撲観戦を楽しむ光景なども、今では相当減ってしまったはずだ。
引退後、北の湖は理事長として日本相撲協会を切り盛りするが、その手腕は決して関取時代のように力強く鮮やかなものではなかった。ただ、不器用さがそのまま見て取れるような言動に、黙々と集中して相撲をとっていた関取時代の姿勢が表れているようでもあり、心のどこかで応援したくなる気持ちを抱いたこともまた事実である。
一時期の低迷からようやく人気回復の兆しが見えはじめた大相撲を見届けるように、昭和の大横綱は旅立った。
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