国立公園管理員は1953年に発足した制度である。その3期生として環境行政の黎明期を担った大崎清見さんにお話をうかがったのは2006年、新宿御苑のヒマラヤシーダの大木のそばだった。桐生高OB。「ふるさと人国記」の取材である。
新宿御苑は大崎さんの提案だった。大木近くの洋館が管理員試験会場であったこと、研修員時代は御苑内の建物が「わが家だった」ことがその理由だ。
日本全国に27あった国立公園に、3期生が加わって29人の管理員。すべてのことを手探りではじめる黎明期で、大仙を振り出しに阿寒、霧島と良好な大自然が保たれた現場で、これをどう守り、市民生活との関係をどう指導していくかを考えながら日々をすごし、現代に通じる環境行政の骨格作りに奔走する。
関連施設建設における当時の大蔵省との折衝や、保全と開発や利用促進と抑制のはざまにあって予算や法令と格闘した。
身近な実践と法の理解を柱とする大崎さんの環境論はこうしてたたきあげられたのである。
宮内庁管理部庭園課にも5年いて、皇居内の樹木を調べあげた。これは国立博物館が2000年に発表した「皇居の生物相調査」の先駆けである。田植えどきにご一緒して、楽しいお話をうかがった思い出を胸に、昭和天皇崩御に伴って1年間、大崎さんは祭官の任務についた。
年賀状をいただくようになったのは取材の翌年からだ。そこにはいつも近況が添えられていて、今年がちょうど10年目だったが、先ごろご家族から届いた喪中はがきによれば、この春84歳で他界されたそうである。
退官したのは1985年。その後も環境に携わる数々の役職をこなし、ベトナムの国立公園計画の現地指導や、府中かんきょう市民の会の相談役、さらに大学講義で後進も指導した。
身の回りの出来事が地球環境にどうつながるのか、想像力によって環境問題への市民意識は高まると信じた大崎さん。「私は税金を使って好きな勉強をさせてもらいました。その恩返しだから」と、ボランティア活動には精力的に取り組んだ。
宮城村の農家に生まれ、「日本の農業生産品の増産を果たして、いつの日か、おいしいものをみんなが味わえる世の中にしたい」という夢を抱き、宇都宮大学農学部に進学した。「いまでも夢です」と、にこやかに語ってくれたことを思い出す。
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