晩年はずっとアルバイトでしのぐ暮らしの中で、豊かな知識をもち、ことばを大切にし、ユーモアを忘れなかった知人がいた。故人だが、彼が語った「笑い」の話が思い出されるのだ。
それは知人が第2次世界大戦末期、杭州湾沖の舟山島に一人立てこもって、帝国海軍の食糧確保のために命がけで仕事をしていたころのことだった。
激闘の沖縄がおち、次は大陸接岸作戦で敵が上陸してくるだろうと、覚悟を決めて死の準備に明け暮れていた。ところが電気もないような小さな島はまったく相手にされず、ホッとする一方で、途方もない自虐の笑いにさいなまれ続けたという。
後年、山田洋次監督が「絶望とは明るいのではないか」と言うのを聞いて、それをわかっているから、心から笑え、泣ける映画が作れると感じたそうだ。
もちろん、むかし話をしたいとか、懐かしさでそんな話をしてくれたわけではなかった。
「じたばたしてもどうにもならない年齢になった。未来より過去の比重が多くなって均衡が保てないところもあるから、そのつもりで聞いてくれ」と前置きし語ったのは、深刻な顔つきで簡単に絶望を口にし、優しさのない軽い笑いばかり横行する世の中のことについてだった。
「フロイトはね、笑いは余剰エネルギーの発散であるといったけど、いまの笑いにエネルギーはないよ。ユーモアのつもりでも、全然笑えないんだ」と。
二度と戦争の過ちを繰り返してはならない。切羽詰まった心情などはまっぴらだ。そのために反省しなければならないことはたくさんあると、平和を心から望んでいた。でも、悠久の大義に生きるとたたえられ、逃れられない宿命を素直に受け入れて死に臨んだ同年代の特攻隊員たちが、出撃前にみせた笑顔には謙虚さが満ちあふれていたことを片時も忘れたことはない。そうした諸々が心にこびりついて安らかでなくなったという。
「現代は、貧しさも豊かさも被害者も加害者も不鮮明で、生きがいの対象を見つけにくく、生あるうちに自らの中で何かが死に絶えていく。たいへんな社会だなと思うよ」。これは絶望でなく、知人の声援と期待である。
「とりわけ政治家だ。自己を正当化するために相手を誹謗するという卑しい態度に何の恥辱も感じないのだろうか」。古いメモを見返しながら、少しも色あせていないと、感じている。
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