TBSの新春ドラマ「百年の計、我にあり」を見た。愛媛県の別子銅山の近代化のあゆみをつづったこの物語のロケが桐生倶楽部で行われたことはすでに本紙でふれた通りだが、観ているうちに、別子銅山とみどり市東町出身の鉄鋼王・今泉嘉一郎との関係が思い起こされた。渡良瀬川流域とこの物語は単なるロケ地との関係を超えた縁で結ばれていると気づいたのだ。
鉄鋼王の父は江戸幕府代官付の村吏で、母は医者だった。
東京帝国大学に学んだ嘉一郎は1894年、農商務省大臣の榎本武揚の命を受けてドイツに留学し、97年に帰国した後、設立された国営八幡製鉄所の技師に迎えられ、1909年の退官まで築炉や製鋼事業で中心的な役割を果たすのだが、「銑鉄は官営ではなく民営で、平和産業として発展すべきだ」という信念に基づいて民間製鉄所の設立に参画し、後に「鉄鋼王」と呼ばれるようになった人である。
その彼の大学時代の卒業論文が、実は「伊予鉱山の近代化研究」だった。これについては2011年1月、足尾歴史館設立に尽力した小野崎敏さんが本紙に随筆を寄せている。それによれば、この今泉論文は1891年に地元新聞に掲載され、後に「伊予鉱山論」として再現されて、日本で初の公害防止を論じた報文として注目された。
各地の銅山を訪ね歩いて、亜硫酸ガスの害毒を直視した。鉱石中に含まれる物質をみな採取する技術を完成させることにより無公害の精錬法を確立すべきだと、彼はこの段階ですでに提案していたのである。
時系列でたどれば、鉱毒事件を世に知らしめた渡良瀬川洪水が起きたのがその前年の90年8月のことである。そこからの鉱害の歴史は渡良瀬川流域の私たちが背負った事実の通りだ。
嘉一郎をドイツに留学させた榎本は、田中正造の痛烈な農商務省批判を受け止めて政府官僚として初めて足尾の現地を視察した。その後、責任を取って大臣を辞任し、以降は一切官職に就かなかったと、これも小野崎さんの著書の中の話である。
人の暮らすところ、あらゆるものにつながる縁があり、物語がある。動機を持ってその裏づけをたどってみると、そういう縁を見過ごさず、必ず書き留めておいてくれる人がいる。これが地域の文化の厚みというものなのだと、ドラマはそのことを見つめ直すきっかけになった。
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