敗戦で失意の底にあった日本人の心に明るい歌声で「リンゴの唄」を届けた歌手の並木路子さんは、1945年3月10日の東京大空襲の夜、火災から逃れるため隅田川に母親と一緒に飛び込んだ。数日後、母は遺体で発見され、さらに父や兄も戦火で亡くすなど、日本人が味わってきた悲しみの多くをその一身に背負ってきた人である。
作曲した万城目正さんが彼女に譜面を渡したのは終戦の翌月だった。万城目さんはすべてを心得た上で、レコーディングでは「キミの歌は暗すぎる」と指摘したという。「気持ちはわかるけれど、いまは悲しみに耐えている人たちに希望を与えるためにも明るい歌が必要なんだ」
そのひとことが心に突き刺さったという並木さん。日本の復興に貢献した昭和歌謡の誕生秘話の読後感は重かった。
このころ日本は東京だけでなく、各地が激しい空襲にさらされていた。その中で人々はどんな難に遭い、逃げのびて、戦後の日々へつないでいったのか。
そうした体験談は私たちの新聞にも数多く記録されている。
並木さんと同じころ、焼夷弾の雨と猛烈な炎と黒煙と風から身を守りつつ、逃げのびた青年は「明日があるということくらい幸せなことはない」と、戦後はキャリアとなって日本の暮らしの向上に手腕を振るった。
勤労動員中の工場で爆撃に遭い、九死に一生を得た後に、日本の技術大国への歩みに貢献する学者となった人もいる。
立ち止まれば群集に踏みつぶされる恐怖を味わいながら親に手を引かれて逃げた幼い日の体験を語ってくれた人の「戦争なんかしてはいけない」の言葉の余韻はいまも忘れがたい。
「私は、湾岸戦争のテレビ映像を見たとき、焼夷弾が花火のようにきれいに落ちていった下町の姿が浮かんで、涙が止まらなかった」と、こんな思い出を語ってくれた女性もいた。
こうした話を文字で再び伝えようとするたびに体験者の気迫には到底及ばないと痛感する。
戦争を想像で語らねばならない限界を、伝える側がつい感じてしまうのだ。だが、及ばずとも、折にふれ繰り返していかねばならないことだとも思う。
「戦争を知っている世代が社会の中核にある間はいいが、戦争を知らない世代ばかりになると日本は怖いことになる」と言ったのは政治家の田中角栄さんだ。そうならないために。
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