桐生市が初めて機銃掃射を受けたのは1945年7月18日のことだが、機影はそれ以前から頻繁に桐生上空へ現れていた。
「太田を襲撃した敵機が桐生方面に向かってくるのは帰還の旋回のためで、夜目にもよくわかり、屋根にのぼると、敵機は夜空を魚が泳ぐように進んできます」。テキスタイルプランナーの新井淳一さんは昨年本紙で連載した「敗戦のあとさき」にこう書いた。屋根にのぼったのは、同年3月の東京大空襲を体験した小父に「防空壕には入るな」「B29なら屋根にのぼれ」と厳命されていたからである。
新井さんは同年4月に桐中2年の新学期を迎えた。上級生は軍需産業に駆りだされ、当時の2年生は学業に専念できる最高学年だった。新井さんはそこから敗戦まで、沖縄戦の伝説となった尊敬する先輩の死や、終戦直後の混乱の様子を貴重な体験談で綴ってくれたが、その番外編とも位置づけられそうな思い出話が先の桐高同窓会会報「山紫第24号」に掲載されていた。
表題は「敗戦のもたらした旧制と新制のはざまにあって」。
そこには、13歳から20歳までが学生として入り交じる状態にあって、軍国主義教育の後ろ盾を失い、民主主義を説得する権威も持ち合わせぬまま、みんなが明日を探り合おうとする学園生活の激変が描かれていた。
「反動教員追放」を叫んで多くの教師からひんしゅくを買った学生が、栄養失調になった先生のために全学年に呼びかけて食料を集め、その食料が統制違反に問われ、警察官の取り締まりに激しく抗議したこと。皇国史観の教師が「教師も生徒も共にGHQの民主主義を学ぶことで日本の再建を果たそう」といって英霊室を自らの涙で拭き清め撤去した話など。それはさまざまな立場の人が思いをぶつけ合い、情においては連帯した不思議な時間であったようだ。
人それぞれに立場は違う。けれども、そうした立場の違いがどんな歴史的背景を持っているかを理解し、共感の思いが抱けなければ何ごとも接点は見いだせず、次代は開けない。新井さんが描いたのは、居合わせた若者や大人が、それと必死に向き合っていこうとする姿だった。
会報には現代の若者の活躍も紹介されている。そこにつながれた敗戦の夏の体験談。先々の学校の姿がどのように変化していこうとも、伝統を語り継ぐ機会は大事にしたいものである。
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