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笑顔で伝えてくれたこと

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 好奇心と夢を抱いてひとつの世界を深めていく姿は山登りに似ている。歩き始める場所や道は違っても頂で見せる笑顔はみんな同じだと、これは数々の取材を通して感じてきたことだ。

 本紙のおくやみ欄でそうした方々の訃報に接するたび、決まってよみがえってくるのが時々の体験談である。次代に伝えたい市井の出来事を力みなく語り、笑顔を添えて残してくれた。聞かせてもらってよかったと、感謝は尽きないのである。

 町工場の経営者、柳利雄さんは戦時下の銃後の世代。小学校5年のときにつくった模型飛行機が誰よりも遠くへ、まっすぐに飛んでいった。先生にほめられて飛行機が好きになり、生品飛行場から飛び立つ訓練機の様子などを夢中になって眺めては調べ、桐生工業学校の航空機械科の一回生として入学したころには友人から「飛行機坊や」のあだ名で呼ばれていたという。

 笠懸の愛国飛行場のグライダー訓練の体験者のひとり。一人ずつ順番に乗って浮上感や接地感を会得するのが目的で、20人の補助役がロープを引っ張って走る21人組の訓練である。

 ただ、一回飛ぶために補助役を20回こなすから3回も飛ぶともう身が持たない。翼が桑畑に突っ込むアクシデントが起きるのはこんなときである。「修理で休める。まあ、レジスタンスかな」と笑った柳さんだった。

 戦時体験はつらいことがたくさんあったが、緊迫した状況があるからこそ、息の抜ける時間が何より楽しみになり、懐かしい思い出になる。そんな社会の実相を知る上でも、人肌の温度が伴う証言が大切なのである。

 戦後、航空機の勉強をしてきた多くの人々が自動車産業へと向かう中で、織物業を受け継いでいた柳さんは求評会で一定の成果を出し、それを機に自動車部品製造の仕事へ転身を図る。

 1938年、東京帝国大学航空研究所の長距離飛行機「航研機」が世界記録を樹立した。この飛行機と桐生のかかわりを紙面で回顧するときに、柳さんと出会い、空にあこがれた飛行機坊やの思いを語ってもらった。

 そのころの飛行機坊やは趣味の世界を極めていて、いつでも空が眺められるように、愛用のカバンに七つ道具を詰めて持ち歩いていた。「空は時代を映す鏡なんだ。眺めているだけで国際情勢が見えてくるんだ」と。

 ずっと空を見上げてきた人が遺していったことばである。
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